世界一子どもの幸福度が高い国といわれている『オランダ』。
一体どのような学校があるのでしょうか。
ここではオランダの学校教育、オルタナティブ教育、オランダ教育の歴史についてご紹介します。
オランダ学校の特徴
義務教育
オランダの義務教育は5歳から16歳。
オランダに住む5歳から16歳までの子供は、すべて学校に通う義務があります。
これは国籍の異なる子供や、亡命希望者や難民の子供たちにも適用されます。
義務教育は5歳からとなっていますが、たいていの子どもは4歳から小学校に入ります。
入学式にあたるものはなく、4歳の誕生日を迎えると小学校に通いはじめます。
学校の選択
オランダでは、自分に合った学校を選択することができます。
校区制がないので、住んでいる地域の子どもたちは皆それぞれ別々の学校に通います。
それぞれの学校は大変強い個性を持っており、それはお菓子屋さんや花屋さんを訪れときに感じるような個性の違いがあります。
それは、学校が、入学を考えている子ども自身や保護者に対して、まるで店の商品を売るように「わが校の特徴」を強調しているからでしょう。
オランダ人の親が子どもの学校を選ぶ際、一般に評判の良い学校というだけでなく、自分にとって、自分の子どもにとって最も共感を覚える学校を選んでいます。
校長先生は店長さん
一つひとつの学校がそれぞれ独自の教育スタイルを持っているオランダの学校では、校長先生のリーダーシップが大変重要です。
校長先生は子どもの学校を決めようとしている親に面接して、情報を伝える、学校の代表者です。
オープンディでも代表者として学校紹介をするのは校長先生の役割です。
そして、教職員チームの代表者としてチームの雰囲気づくり、生徒とのコンタクトを失わないために、週に1度ずつでも授業を担当することが義務づけられています。
校長先生になるためには、学校という組織を運営していく代表者としての統率能力が求められます。
そのため、講習を受けて校長先生の資格をとらなければなりません。
資格を取るための講習は、在職の教員、または高等職業専門学校の卒業資格を持った人に対して、週に1回2年間にわたって行われます。
一方的に、市が上から人を配置してくるものではありません。
独自の教材
オランダでは日本にあるような検定教科書の制度がありません。
教師として、自分の考えで子どもを指導するという誇りがあるのです。
そのため、複数の民間教科書、教材会社が折れぞれに工夫を凝らし、独自の方法で教科書をつくっています。
開放された子どもの世界
オランダの小学校には宿題がありません。
家庭や近隣でいろいろな社会関係を結ぶことがこの段階の子どもたちの学びの一環であると考えられているからでしょう。
高校や大学に進学するための入学試験もないため、よい成績をとらなくてはならないという強迫観念に親も子も縛られることがありません。
また、オランダでは一般的にクラブ活動が、日本のように盛んではありません。
子どもたちはスポーツやそのほかの文化活動を、学校から帰ってきた後の自由時間にそれぞれ個別にやっています。
そのため、他国校と試合をしたり、県大会や全国大会に出場するというようなことはなく、学校間で競争を煽るようなことをしていません。
オランダの小中学校では芸術教育はあまり充実していません。
芸術教育は、伝統的に専門の音楽学校や絵画教室が担当してきたもののようです。
宿題や塾がないこと、校区制がないことも含めて、オランダでは学校を選ぶことも、クラブも芸術系の学校も自分で選ぶ体験は、子どもの世界を開放的に広げ、知らず知らずのうちにありのままの社会に触れられるようになるのでしょう。
オランダのオルタナティブ教育
オランダは歴史的に、さまざまな人種の人々が住む地域です。
そんな多民族のオランダではオルタナティブ教育が発展しています。
オランダのオルタナティブ教育を紹介します
🔶フレネ教育
オランダでは1917年の憲法改正によって、『教育の自由』が確立し、市民団体でも独自の理念や方法に基づいて学校を作り、公立校と同様に国庫補助金を得て教育活動を展開することが認められるようになりました。
このため、他国に比べて、オルタナティブスクールが容易に設立できる制度的条件が整っていました。
オランダはオルタナティブ教育が考案された国よりも、より広く柔軟にそれを実践することのできる制度的な土壌ができていたのです。
では、オランダはどのようにして、教育改革を行ってきたのでしょうか。
教育法の改正の歴史
オランダの教育基本法にあたる『憲法第二十三条』(教育の自由)は一朝一夕にできたものではありません。
公立校と私立校間の財政援助の完全平等が認められるようになったのは1917年のことです。
そしてそれが認められるまでに、オランダでは90年に及ぶ政治議論がありました。
すべての人に開かれた共通の公教育という考え方に基づいた教育法がオランダではじめて成立するのは1801年のことでした。
啓蒙思想やフランス革命の影響を深く受けた時代を反映して、公教育に対してあからさまに宗派性を強調することは避けるべきという考えに基づいていました。
オランダは、プロテスタントの結束の下に、スペインのカトリック勢力を相手に80年にわたる独立戦争を戦い、やがて共和国を成立させましたが、それは決してプロテスタントだけの国を作ろうとした戦いではありませんでした。
個人の自由を尊重し、個人間の見解の違いを寛容に受け入れる態度を培いながら、次第に啓蒙主義を発達させていく土壌を作ったのです。
オランダはヨーロッパのさまざまな地域からプロテスタントの思想を受け入れますが、キリスト教の枠だけにとらわれない、人間の理性や合理主義などを積極的に認める啓蒙主義の思想家らにも活動の場を提供しています。
カトリックやプロテスタントの政治家たちによる学校闘争は、オランダに人々に「自由とは何なのか」ということを考えさせ、オランダ独自の『自由』観を生み出しました。
この闘争によって、あえて宗派を選ばない啓蒙主義的中立を重視する人々、あるいは宗教とは独立のリベラルな意識を持つ人々にも自らの立場をより深く意識させる効果があったのでしょう。
第二次世界大戦までの世界
1920年代から、モンテッソーリ教育、ダルトンプラン教育、フレネ教育、シュタイナー教育などが伝えられ、学校現場で採用、実践されていましたが、1960年代まではオルタナティブスクールが全国の学校数に占める割合はごくわずかであり、特殊な実験校という存在でした。
1940年、第二次世界大戦の開戦後まもなく、ドイツに占領されたオランダは、人々が直接戦場で戦うことはほとんどありませんでしたが、国内は大変混乱していました。
終戦直後には、オランダの植民地であった東インド(現インドネシア)で独立戦争が起こり、何世代にもわたって植民地で暮らしていたオランダ人や混血の人々がインドネシアから引き揚げてきました。
そのため、終戦直後のオランダの政治は戦争による社会的混乱を鎮静化し、国を復興することに焦点が置かれました。
オランダという社会
オランダの社会は、カトリック、プロテスタント、無宗派的自由主義者、社会主義者など、複数の社会集団によって構成されていました。
イギリスなどに比べると、社会階級制は比較的弱く、宗派・非宗派の集団が並存する社会は「縦割り社会」と呼ばれてきました。
つまり、オランダ社会は、その構成要素であるさまざまな集団が、それぞれ内部で共有している価値観・倫理観に基づいて行動し、お互いにほかの集団の価値や倫理の存在を認め合う、異なる価値の共存を積極的に受け入れる社会でした。
60年代に入って、社会内部に蓄積していたいろいろな問題が表面化し、人々の意識にあがるようになってきます。
人々の視覚に強烈に訴えるテレビの普及によって、市民がこれらの社会問題に対して、敏感に反応し、さまざまな行動を起こすようになりました。
まず、急速な産業発展のかげで進んだ環境汚染の問題が表面化してきます。
そして、道路増設と自動車数の増大による空気汚染が深刻化し、冷戦下のアメリカの強権によるベトナム戦争の惨状は人々の間に北大西洋条約機構に対する懐疑心をつのらせました。
ソ連をはじめとする共産主義世界を鉄のカーテンの後ろに意識しつつ、西側「自由」瀬下愛の物質偏重と攻撃性とが、人々、特に若い人々の間に「人間性とは何か」という問いを生みました。
こうしたすさまじいばかりの市民の意識化変革と政治的議論への積極的な参加は伝統的なオランダ社会の構造をも大きく揺さぶりました。
まとめ
いかがでしたか。
オランダが『世界一子どもの幸福度が高い国』と呼ばれる所以がわかりましたでしょうか。
国民が、政治家が、全ての人が「自由とは何か?」「人間性とは何か?」と根本的なことに目を向けて長い時間をかけて討論してきたことが分かります。
オランダという国が一丸となって、何十年もかけて積み上げてきたものが、結果として世界から絶賛されるようになったのです。
うらやましい!!という思いはもちろんありますが、わが国も未来の子どもたちに何を託すのか?これからの日本という国を考えて、少しづつでも教育改革の一歩を踏み出してほしいと思いました。
スポンサーリンク
スポンサーリンク
コメント