マリア・モンテッソーリの生い立ち モンテッソーリ教育の誕生した背景は?

モンテッソーリ教育

子育てが始まると、どうやって子どもを育てよう?どんな教育を受けさせよう?と思う方は多いはず。

さまざまな教育法がある中でも、よく耳にすることの多いモンテッソーリ教育。

世界中で実践されているモンテッソーリ教育ですが、ここでは創設者「マリア・モンテッソーリ」の生い立ちについて紹介していきます。

 

モンテッソーリという人物

マリア・モンテッソーリは、1870年イタリアのアンコナ地方のキエラヴァレの港町で生まれました。

この時代、女性のつける仕事は教師が唯一の職業だったため、父親はマリアに教師になってほしいと願っていました。

 

5歳のとき、父親の転勤でローマに移り、トレンチーノ地区の公立小学校へ入学。

マリアは、一年生の時には「お行儀のよい子」栄誉章、二年生で「女性の仕事、針、裁縫」で褒美をもらうほどでした。

勉強においては、競争的ではありませんでしたが、容易に学習ができ、試験でよい成績が取れると気づき始めると勉強に専念し始めます。

 

{*この時代、初等教育は地域の仕事であり、各地域の共同体の手にゆだねられていました。

そのため、人口の半分しか読み書きができない地域共同体の中では、やっとの教育史か受けることができませんでした。}

{*}は時代背景

マリア 技師を志す

1882年、マリアが12歳の時、工科学校への進学を志し、13歳で国立ミケランジェロ工科学校に入学。

そして、16歳の時には技師になりたいと思い始めます。

しかし、この時マリアは不思議な体験をします。

赤ちゃんを抱いた夫人とすれ違いました。その子は長くて細い赤い紙きれを持っていました。

その時のことをマリアは、

「私たちの内部で、奇妙なことが起こることもある。それが私たちの知らない目的へと導いていくのだ」

と語っています。

そして、これを機にマリアは生物化学(医学)に興味を持ち始めます。

{*この時代、科学を学ぶ優秀な若い女性が、臨床医学の部門へ進むことは、前例がなく考えられないことでした。

女性が男性と並んで、患者を診察したり、人の体を調べたりすることは衝撃的だった。}

 

医学の道へ

 

1890年 マリア20歳の時に、自然科学の学生としてローマ大学に入学。

1984年 優秀な学生に贈られる、ロリ賞の奨学金を授けられます。

{*仲間の男子学生たちは、マリアを目の敵にし、できる限りの嫌がらせをしました。

解剖を男性と一緒に行うことは許されず、マリアは一人死体と向き合い苦悩することもありましたが、持ち前の気の強さとユーモアでこれらをはねのけていったのです。}

ローマ大学で、マリアは優秀な学生であり、医学博士の称号を得ることだけが目的の多くの男子学生と違って、医学の学問と実践に興味を持っていました。

彼女の真剣さと優秀な能力が、教授たちにも強い印象を与え、彼らの関心を引いていったのです。

1896年 26歳でローマ大学医学部を卒業。

医学博士の称号を与えられ、イタリア初の女性医師が誕生します。

この時のことをマリアは次のように言っている。

「私が有名なのは、技能とか知能のせいじゃない。何事をも恐れない勇気と冷静さのおかげなんですもの。

これは望みさえすれば、いつでも手に入れられるものよ。だたし、大変な努力が必要ですけれどね」

 

病院に勤め始める

1896年 マリアは、イタリアで最初の女性としてローマ大学医学部を卒業し、ローマ大学付属精神病院の助手になります。

彼女の仕事の中には精神病院に収容されている子どもたちを診るしごともありました。

そこで特別な教育を施すことによって、精薄児が十分発達しうることを確信するにいたり、イタール、セガンといった教育学の先駆者の業績を研究しました。

この時、発達障がいの子どもたちを観察し、必要な教育を行うようになります。

「精神薄弱児の問題は医学的というよりは、教育の問題である」

このセガンの言葉が、マリアには天の啓示のように聞こたといいます。

{*この時代、多くのイギリスやアメリカ女性が、イタリア貴族と結婚。

この女性たちは、自分たちの子ども同様に貧しい子どもたちの教育に対して強い関心を抱いていました。

そして、マリアはこのような婦人たちに多く出会い、国際婦人会議のイタリア代表に選ばれるようになります。}

国際会議の壇上で、マリアは女性労働者の待遇改善を訴える一方で、貧しい患者を治療し、ローマ大学の精神科クリニックで研究を続けます。

 

マリアの社会運動

1897年 27歳の時にマリアは聴講生として、再びローマ大学の教育学のコースに出席し、近代幼児教育について学び始めます。

この時マリアは、

◎婦人解放運動

◎知恵遅れや障がい児の教育を社会的に進める運動

この二つの運動に精神的に取り組みます。

 

トリノの全国医学会議で、医療と教育を兼備した特殊施設の設立する法案を提案。

論文を発表することで、この考えを広め、教育大臣グウィード・バチェリに提出。

全国連盟が組織され、マリアは実務を遂行する中心メンバーとなります。

そして、連盟の資金集めの目的もかねて、ミラノ・パドベ・ベニス・ジェノバ・・と講演旅行へと行きます。

 

連盟はローマに学校「低知能児教育学校」を開校。

そして、マリアはこの学校の施設責任者任命されます。

 

幼児教育の道へ

1898年 28歳 同じ病院で働いていた医師、モンテサーノとの間に子どもを授かりますが、モンテサーノの母に強く反対され、マリアは未婚の母となります。

息子の「マリオ」出産。マリアはこれを機に、学校を辞職します。

息子マリオの未来に対するすべての希望のために、新たに学び始めます。

1900年 30歳 普通教育の研究に再び全力を注ぐため、マリアは医学と特殊教育から離れることを決意します。

この頃のマリアは

◎医師としての発達遅延の子どもの訓練という研究(イタールとセガン)

◎子どもたちの教育について(フレーベル、ルソー、ペスタロッチ)

この二つの研究に力を注ぎます。

 

そして、子どもを抑圧する教育制度に疑問を抱いていたマリアは

「抑圧されていた不幸な障がい児ではなく、普通の子の成長発達を刺激し、適用したらどうなるのだろう」

と考えるようになり、子どもの魂の中に眠っている人間性を呼びさますために、魂に働きかけなければならないという信念に駆られるようになります。

 

1901年 31歳 再びローマ大学へ入学。教育学部、哲学科を学び始めます。

1904年 34歳 ローマ大学教育学部で自然科学と医学コースを教えるようになり、この頃から、子どもの観察記録をつけはじめ、就学児童を自由にする改革運動の出発点となったといわれています。

1906年 36歳 マリアの演説集が印刷され、社会的な問題へとつながっていきます。

{*ローマは急激な近代都市化が進みます。

サン・ロレンツィオ地域にスラムと化したアパートがあり、共働きの夫婦が住むようになります。

住人の中に約50人の幼い子どもたちがいて、小さなギャング集団のように物を壊したり、落書きをしていました。

協会は苦心の末、これらの就学前の子どもたちを日中集めて、共同保育することを思いつき、マリアに監督を依頼します。}

 

「子どもの家」設立

1907年 37歳 サン・ロレンツィオのスラム街に「子どもの家」を設立。

マリアは、自分の教育論を普通時に試してみたいと考えていたため、即座にこの依頼を引き受けます。

この直観的な自己決定がなければ、のちの「子どもの家」も「モンテッソーリ・メソッド」も生まれなかったでしょう。

優良建築協会の人々は、「子どもの家」の全てをマリアに委ねました。

しかし、マリアに与えられたのは、ビルの一室と子どもたちだけであって、おもちゃや備品を買うお金は全くありませんでした。

マリアは、寄付を募り、自分の財産の一部で補足。

教団を思わせる頑丈な机、中になんでも入る戸棚、子どものための長い机。

子どもを観察し、必要な備品や教具を導入していきました。

 

「子どもの家」の活動

マリアが、まず知りたかったのは、普通時の反応であり、そのためには子どもたちを自由にして、自発的な表現を可能にしなければならないと考えました。

そのため、毎日の子どものお世話は、何の経験もない女教師に任され「子どもたちを妨害しないこと」のみ注文します。

このようにして、「子どもの家」の実験が出発したのです。

 

モンテッソーリの学校は

「子どもたちの本性と欲求が教育内容の出発点」

という意味では、子どもたちが中心でしたが、決定を下すのは、彼女自身でした。

善と悪とをはっきり区別できるよう、してはいけないことをやめさせ、確固とした厳しさを示していました。

そのなかで、マリアは両親の責任を明文化していきます。

  1. 子どもの体をきれいにし、服を着せ、指定時間に子どもを送り届けること。
  2. 指導者や子どもの家の関係するすべての人に対して、最高の敬意を払い、従うこと。また、指導者とも協力すること。
  3. 母親と面談し、子どもの家庭生活を報告し、有益な助言をもらうこと。

親が、教師と子どもの教育について話し合うことが望ましいとされたのは、革命的なことでした。

 

マリアの方法は、教師はほとんど教えずに、多くのことを観察しました。

そして、子どもの精神活動と生理的発達を導くのが、教師の仕事として、教師という名前を「指導者」という名前に変えます。

子どもを観察するうちに、マリアは「感覚教具」を作ります。

これは、自分の誤りを直すように設計されていて、知覚を育てるのと同時に、自主性(周りにあるものを支配したい)という意識も得ることができました。

この時、教師は使い方を教えるだけで、決して邪魔をしないことに注意が払われました。

そして、サン・ロレンツィオの実験のうわさを聞いて、多くの教育者、ジャーナリスト、宗教指導者が訪問するようになります。

 

マリアは、読み書きを6歳以下では教えてはいけないと考えていました。

しかし、多くの母親たちから読み書きを教えてほしいと要求を受けたため、マリアは「木製文字ケース」の作成を試みます。

この木製文字ケースをつかうことで、4~5歳の子どもたちが、2か月足らずのうちに、書きを覚え、数日後、読み方を覚えてしまいました。

このことに、世界は驚愕したのです。

 

モンテッソーリ・メソッド

1908年 ミラノに子どもの家を設立。

マリアは、日常生活すべてが、作法と道徳、教育の仕方だと考えました。

「やさしく丁寧にお辞儀をしながら、おもちゃをプレゼントすることを教えました。」

このように階級の違いなどという考え方は全て排除、やさしい思いやりの心を呼びさましていったのです。

教具を正しいところにしまうことも知覚訓練と考えました。

「コップで口をすすぐことも、味覚訓練と衛生訓練になります。」

こうした訓練は、消費者として、大企業の広告の落とし穴にはまらない手段としても重要だったのです。

『感覚がまひしているから、食べ物を様々な混ぜ物にすることが可能になってくるのです。

ずるがしこい企業は、感覚教育がないことをいいことに、大衆を食い物にしています。

消費者は商人の正直さを頼りにしていることが多いし、製造会社や箱のラベルを信頼しきっていることが多いのです。

これも、消費者が自ら直接に判断をする能力が欠けているからなのです。

自分の感覚を使って、様々な品質の違いを区別することさえできません。

事実、実践を伴わない知性は、役立たずのものとなるといっても差し支えないでしょう。

この実践とは、ほとんどの場合、感覚教育を意味しているのです。』

<参考文献:子どもへの愛と生涯>

 

38歳の時に、農地改革運動の指導者であるフランチェッティ男爵と出会います。

男爵夫人は教育改革に熱心で、農民の子どもたちのために小学校を作る運動をしていました。

次第に、マリアの周囲には熱意に満ちた若い協力者や崇拝者が集まり、マリアの思想とメソッドを本に著すことになります。

1909年 39歳の時、「モンテッソーリ・メソッド」が出版。国際的に認められるようになりました。

世界中に広がり、翻訳されました。

しかし、1910年教会との意見の相互により、マリアはサン・ロレンツィオの学校をやめることになります。

1911年 アメリカの教育雑誌の紹介により、「モンテッソーリ・メソッド」はアメリカにおける知名度は高まり、相乗作用をなして爆発的な売れ行きとなり、ベストセラーとなりました。

1912年 42歳の時に母:レニルデが死去。これを機に息子のマリオを引き取り一緒に暮らし始めます。

 

1913年 アメリカで講演を行い、これがモンテッソーリ運動の始まりとなりました。

この時のことをマリアは次のように述べています。

「生涯の使命が、具体化してきました。

世界中の子どもたちに代わって、その権利と解放を伝道することが使徒としての義務であると感じたのです。」

そして、マリアはローマ大学の講師、医師会からも脱退します。

 

モンテッソーリ協会

その後、マリアはイギリス、フランス、セイロン、オランダ、ドイツ、スペイン、インドなどで講演を行うようになります。

マリアはモンテッソーリ・スクールのための教師を養成するため、モンテッソーリ協会を立ち上げ監督するようになりました。

 

1913年 アメリカにてヘレン・ケラーと出会い、マリアは『私のハンドブック』を出版、彼女に本を贈っています。

1915年 45歳の時にアメリカでパーカーストと出会いますが、後にパーカーストは新たな教育『ドルトンプラン』の創始者となっていきます。

マリアは、43歳から51歳までアメリカで過ごしますが、1921年にはイタリアに戻ります。

そして、1924年イタリアにモンテッソーリ・スクールが開校しました。

{*この頃からムッソリーニ独裁政治が始まります。

この時、マリアは戦争を教えることを拒んだため、モンテッソーリ・スクールは廃校になります。

これを機に、マリアはスペインへ移住します。}

1940年 70歳の時、インドへ移住。この時、インドで乳幼児の観察を始めます。

ヨーロッパではベビーベッドやゆりかごで子どもを寝かせるのに対して、インドでは、大家族全ての世代が一緒の部屋で住んでいるという、文化の違いを目の当たりにしたマリアは驚きます。

こうしてマリアは、自分の教育論について新たな考察を始めます。

マリア・モンテッソーリ主要著書:子どもの発見 幼児の秘密 子どもの精神~吸収する精神~ 自己教育

第二次世界大戦後、イタリアへ戻り、1949年79歳の時にノーベル平和賞候補にあがるが、これを辞退。

1952年 81歳オランダにて生涯を閉じます。

マリアは、子どものときに絶対にならないといったものに生涯を捧げてきました。

それは、教師でした。

>>モンテッソーリを読む!モンテッソーリ教育おすすめ7選 

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