シュタイナー幼稚園で大切にしていること 自然を感じるとは⁈

シュタイナー教育

シュタイナーの教育思想に基づいたシュタイナー幼稚園。

そこでは、いったいどのような生活が送られているのでしょうか??

そして、シュタイナー幼稚園と日本の幼稚園では、一体何が違うのでしょうか。

ここでは、シュタイナーの幼児に対する考え方と、シュタイナー幼稚園で子どもたちがどのような体験をしているのか、をご紹介していきます。

 

シュタイナー幼児教育の【基本的な考え方】

シュタイナーの幼児教育の基本には、精神が肉体に宿るという意味の「受肉(インカネーション)」という考え方があります。

生れたばかりの赤ちゃんは、手も足もふらふらしていて、まるで、まだこの世の住人ではないかのようです。

幼児の意識は、まだ完全には肉体に納まっていないで、まるで肉体の周辺を漂うようにして存在しています。

ところが、だんだんと自分の指先を見るようになり、両手で遊び始めます。

足をバタバタさせ、そのうちにハイハイするようになります。

自分の思うように動けるようになり、目的の場所まで行けるようになります。

1歳くらいになったらつかまり立ちをして、歩けるようになります。

そうやって、赤ん坊は自分の手足、からだを少しずつこの世のものにしていくのです。

子どもたちが自分の足で立ち、少しずつ言葉を覚え、思考を習得して、「ぼく」や「わたし」というようになるにつれて、だんだんと子どもの意識は肉体に宿っていく、つまり受肉していくのです。

シュタイナーの幼児教育では、この「受肉」の過程を妨げることなく、かたわらから支えることが重要だと考えます。

人間が自分の「人生の設計図」に立ち向かえるようになるには、自分の自我が、自分のの肉体の完全な主人になっていなければならないからです。

シュタイナーは「人間の自我は永遠なる存在である」といいました。

「自我」はその人のが生まれる前から延々と存在していて、生まれる前には星の世界にいた。

だから、私たちは、目の前にいる子どもを自分と同じような人間に育てようと思ってはいけない、この子どもは自分とは違う、もっともっと素晴らしい存在になると思いながら育てる。

子どもの中にあるものが出てくるように育てなければいけない、と考えました。

 

教師や親の役目とは??

私たち教師や親は、庭師です。

土があって、種があります。

撒かれた種に合った土壌と肥料、雨と光と風を調える。

かけがえのない、その子にしかない自我という種を育てるのです。

一人ひとりの命の芽を育てるのです。

そういう根本的な、人間の個的な存在が、どんな子どもにもあります。

だから、「自分の子だから・・・・」と親が子どもを道連れにして、殺したりするのは大きな間違いなのです。

そうではなく、目の前にいるこの子どもの中にはかけがえのない、まったく自分が知らない存在があるのだから、その子の持っているものがちゃんと花開いて実を結ぶようにする、それが親や教師の役目です。

私がシュタイナーを素晴らしいと思うことの一つは、障がい者も健常者と全く同様にみんな素晴らしい自分の自我を持っていると考えたことです。

脳に何らかの障害があって、体をうまく動かすことのできない子がいます。

でも、その子の自我がダメなわけでなはい。

そんな子どもにも素晴らしいスピリチュアル(精神的あるいは霊的)な存在があり、ただ体に支障がでたり、体と自我が上手く一体化していないのだとシュタイナーはいいます。

その意味で、健常者も障がい者も区別しないのです。

こうした「スピリチュアルな存在としての人間」という考えが抜けてしまうと、シュタイナー教育は意味がありません。

ですから、シュタイナー教育はノウハウではありません。

しかしながら、ものすごいノウハウがあるのもシュタイナー教育なのです。

 

 

シュタイナー幼稚園から学ぶ【空間作り】

では、シュタイナー幼稚園とはどのような幼稚園なのでしょうか?

ここからは、実際の幼稚園の様子を見ていきます。

部屋とおもちゃ

子どもが遊ぶ部屋(空間)が外から見えるようになっていると、子どもは落ち着かず遊びに集中できません。

そこで、シュタイナー幼稚園では、遊びの時間に淡いピンクのカーテンを引いています。

参照:どんぐりのおうち

そうすることで、子どもにとってその部屋は内面的な空間となり、夢を見ることができるようになります。

「夢を見る」ということは、自分の内面世界にはいること、つまり魂を萌芽として発達させていくための基礎となるのです。

また、シュタイナー幼稚園の人形は、町のおもちゃ屋さんにあるような人形に比べるととても質素で素朴なものばかりです。

それは、シンプルな人形を子どもが手にするとき、

「子どもはそれを人間らしく見えるようにするために、自分の想像力を刺激して、そのお人形に何かを付け加えなければならない。

創造力の子のような働きは脳を形成するのに役立つ。

脳はそれによって発達する。

腕の筋肉がふさわしい作業をすることで発達するのと同様である」からです。

(シュタイナー『霊学の観点からの子どもの教育―講演+論文』より)

 

 

季節の行事

シュタイナー幼稚園では、四季の行事をとても大切にしています。

季節を感じるために行われるライゲン。

これは、生活のリズムの中に組み込まれており、その時期によって季節を感じることができるような、踊りに似た動きをするものです。

四季のお祭りとして大きく上げられるのは、イースター(復活祭)、ヨハネ祭、ミカエル祭、収穫祭、マルティン祭、アドヴェント、クリスマス会。

シュタイナーはヨーロッパで行われた教育であるため、キリスト教の考え方が入っています。

しかし、これらの行事のほかにも、日本の行事として、節分、ひな祭り、七夕、夏祭りなども行われています。

四季の祭りでは、伝説や神話によって季節の特徴や意味が語られますが、誕生日もかけがえのない一人の子どもの誕生の一つ。

その日は、金のかんむりや年の数のろうそくを使います。

子どもの誕生をお祝いするのですから、シュタイナー幼稚園では四季の行事と同じくらい誕生日を大切にしています。

 

織り物と水彩お絵かき

シュタイナー教育では「水彩」がよく行われます。

幼稚園でも、一週間のリズムの中に「水彩」の時間が組み込まれています。

画用紙一枚を水につけて、画板にはります。

スポンジで水けを吸い取り、赤、黄、青の三原色を適量の水で溶き、筆で画用紙の上に置いていくと、色がにじんで広がっていきます。

こうしてできたのが下の写真のような絵です。

「何かの絵」を描くことが目的なのではなく、色彩そのものを体験することが大切なのです。

シュタイナーが「色は自然の魂であり、色そのものが生きた存在である」

というように、こうした体験によって、自然のさまざまな事象への関りが育つのです。

 

 

理屈ぬきに”感じること”の大切さ

子どもの自我が、だんだんと肉体の中に入ってくる過程、つまり自我が肉体の住人になるプロセスこそが教育です。

ですから、自分の体の中にキチンと自我が入っていない幼児時代に、まず大事なのは、外からのいわゆる「しつけ」ではなく、本当に自分が自分の肉体と結びつくような教育です。

 

そのために大切なのが「純粋知覚の体験」です。

たとえば、赤ちゃんがお母さんのお乳を飲むときは「これはミルクだから」と飲むのではなく、ただ一生懸命に本能として吸っているだけです。

そのときに赤ちゃんにはおっぱいの温かい感触や、お母さんの手や肌に触れる感覚がまずあって、「これがママの体だ」なんて考えるのはその後でしょう。

なんとなく安心感があって、いいなぁと感じているだけでしょう。

そこには理屈も抽象化もありません。

それが「純粋知覚」です。

子どもがきれいなお花を見ていると、お母さんはよく「きれいなお花ね、これなんていうか知ってる?」などと聞きますが、これは説明です。

花を感じるのではなく、花についての説明をすることは、純粋知覚の体験ではありませんから、よくないことです。

花くらいならまだしも、「栄養になるからこれを食べなさい」などといっても、幼児には、そうした抽象的なことはまだ理解できません。

むしろ子どもがそうしたものを見たり、触ったりしてかんじる純粋知覚の体験を妨げることになっています。

 

シュタイナーは幼児には理屈ではなく、(きれいだ)(いいにおいだ)(すっぱい)(おいしい)といった純粋な世界の感覚を体験することこそが大事だといいます。

それが何の花であるかという知識よりも、理屈抜きに(あぁ、これ、なんかすばらしいなぁ)と感じることの方が大切なのです。

 

人間はこの世に生まれて、まず自分を知り、周りの世界を体験していかなければいけません。

そこから子どもの教育は始まります。

周りを感じるとことと自分を知覚していくことは同時になされます。

本物を触っていなければ周りの世界が感知されませんから、自分を知覚することも難しくなってしまいます。

触覚は自己体験でもありますから、しょっかう体験を通して自我が育つのです。

だから、ただ温かいお母さんの肌に触れることが大切なのです。

 

このことは、自分があまり愛されていないと感じたり、環境に不満があるときに「指しゃぶり」がでてくることからもわかります。

不満があるから指をしゃぶって自己確認をしているのです。

 

 

幼児との会話は?

シュタイナーの幼児教育では、こうした純粋知覚を育てることをとても大切にしています。

なかでも特に大事にしているのは、触覚体験です。

シュタイナー幼稚園の積み木がすべて自然の木で、プラスチック製品を使わないのは、プラスチック製品はどんな形の物、どんな用途に使うものでも同じ質感しかないからです。

それでは、触覚体験が得られません。

この頃、落ち着きのない子や騒ぐ子には、指先の感覚がまったく発達していない子が多く見られます。

なんでも親がしてあげるためです。

年長さんでも指先の力がなくておせんべいの袋を避けない子どもが少なくありません。

触覚は全身にありますが、特に感じやすいのは指先ですから、砂遊び、粘土をするなど、指先を動かせることをとても大事にしてます。

 

ところで、子どもに説明してはいけないのであれば、どんな話をすればいいのかと思うかもしれません。

幼児には単に「おいしいね」「きれいだね」だけでいいのです。

大切なのは実際に目の前にあるものを介在して一緒にそれを感じることです。

 

いまの親は一方的に子どもに話しかけることでコミュニケーションをとっていると思っているように見えます。

あるいは、子どもとの間の沈黙を怖がっているのかもしれません。

でも、きれいなお花を見ている子どもが何を考えているかは、わからなくてもいいのです。

説明しないで、待ってあげればいい。

子どもからくるものを待っていて、受け止めて返事をしてあげればいい。

「待つ」ということがとても大事です。

 

 

シュタイナー幼稚園から学ぶ【食事】

イヤなことがあると、食事がのどを通らなくなることがあります。

大人でもそうですから、全身が感覚器官である幼児にとっては、なおさらどのような環境で食事をとるかは大切です。

現代では仕事関係で食事が不規則になったり、テレビを見ながら食事をとったりといい加減になりがちですが、シュタイナー幼稚園では、まるで儀式でもあるかのように、美しく、厳かに食事をいただくようにしています。

外からやってくるものに対して、感謝と敬いの心がなければ本当に自分のものにすることができないことは、頭脳労働における知識でも、体の養分となる食事でも同じです。

最近は食欲のない子どもが増えています。

それは、肉体の欲求だけに係るのではなく、心の働きにも大きく係わっているのに、食事の場に感謝の気持ちに満たされた、調和のとれた雰囲気がなくなっているからではないでしょうか?

食べ物の感謝と喜びを幼児が持てるような食事をすることは、食物の栄養を充分に体に取り込むためにも大切です。

シュタイナーをもっと詳しく知りたい方はこちら >>シュタイナーの子ども観と教育思想

 

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