日本の教育制度始まりはいつから?日本教育と学校制度の歴史について紹介

日本の教育

人は生まれた瞬間から、知りたいという欲求により常に学び続けます。

では、教育というものはいつから始まったのでしょう?

その歴史を見ていくと「学び」は「教育」という名になり、組織化されていきます。

学校教育はどの時代から?

義務教育はなぜ始まったのでしょう??

ここでは、日本の教育歴史について簡単にご紹介していきます。

 

日本の教育歴史と学校の学び

さて、学校はどの時代から始まったのでしょうか?? それでは見ていきましょう!

 

初めての教育思想家・・・といえば?!

日本史上、最も早く教育に関心を示したといわれるのは、ご存知、飛鳥時代の政治家、聖徳太子(574年-622年)です。

理想主義的な哲人政治を志向しましたが、残念ながら書物としての教育論は残していません。

主に冠位十二階、十七条憲法の制定、遣隋使(小野妹子)の派遣、四天王寺、法隆寺などの建立などを行ったことで有名です。

彼は教育思想に、「すべての人に等しく教育を説き、理想の現実と人間平等」との考え方をもっていました。

日本では初めての教育の思想家とされています。

大和時代② 聖徳太子の登場! : ボケプリ 涙と笑いの日本の歴史
古代日本の教育について、多く知られているとはいえません。

しかし、山上憶良の「貧窮問答歌」などにも見られるように、親が子を思い、そのために何かをしてやりたいという気持ちは時代が違っていても変わることはなかったようで、資料の残っている以前から親や大人たちが、子どもや若者が一人前になっていく上で、何かの手助けや指導をしていたことは想像に難くないでしょう。

 

日本初の教育制度

最初の教育の制度は、大宝律令(701年)による教育制度の確立でした。

この制度は、中国「唐」から持ちこまれたものを参考にして作られました。

その仕組みは、官僚育成機関として大学寮があり、式部省の所管で『儒教、算術、中国語、書道、歴史、法律』の六学科を教えていました。

その他にも、専門的な技術者養成機関としては医療、天文、音楽などがありました。

この時代では、教育の制度は確立されたものの、身分の高い人しか学ぶことはできなかったようです。

しかし、平安時代後期から官職の世襲化が進み、世襲の存続のために大学寮外の自宅などで学術継承されるようになっていきます。

そして、1177年の大火で大学寮が消失すると、再建されることなく、公的教育機関としての大学寮は消滅してしまいました。

 

 

鎌倉時代から室町時代までの学問

階級制度があった時代では、公家が古典研究や武家の行事、法令、制度、官職、などの学問の担い手となり、新たな社会層であった武家階級でも学問を身につけるために、学校の設備に配慮するようになりました。

そして、鎌倉時代には北条実時が金沢称名寺(現、神奈川県横浜市金沢区)に金沢文庫を設置し、多くの文書を収集しました。

また、遅れて室町時代には関東地方において上杉憲実が足利学校を再興。

当時の日本の中心的な学校と考えられていました。
足利学校(あしかががっこう)の意味 - goo国語辞書
(写真は日本最古の学校「足利学校」(栃木県足利市))

その他に、西洋人から見て代表的な学校としては、高野山、比叡山などもありました。

庶民の間では、芸事や趣味の道が次第に洗練されたものになり始めました。

『風姿花伝』のように芸の道を人間の道と重ね合わせて修行のありようを考えるという視点も、この武家階級という背景によってうみだされたものでした。

 

江戸時代初期・中期の教育機関

江戸時代中期の教育は教育機関となる区分が存在せず、幕府によって選定された人物が学問の研究を行い書物を刊行し、武士・百姓・町人の身分制度の中で自学自習するといったことが行われていました。
元禄歌舞伎 - お客様の装い7 : 着物のよろず 針箱
元禄文化
幕藩体制安定期の元禄文化では社会の安定と経済の発展に伴い、町人に受け入れられる文学や芸能が生まれ、身分秩序の枠内で生きる人々の言葉をつかんでいきました。

そして、儒学、自然科学、古典研究が発達し、この時代では政治のあり方や自己の生き方についての指針を求めることが多くなり、自由な人間性の追求が行われました。

文学では、俳諧は松尾芭蕉、小説は井原西鶴、脚本は近松門左衛門。

絵画では、尾形光琳、土佐光起、住吉具慶。浮世絵に菱川師宣、鳥居清信。

歌舞伎では、市川団十郎、坂田藤十郎、芳沢あやめなどがよく知られています。

この時代には、後世に名を残した人々がたくさんいらっしゃいました。

 

教育に大きく関わっていた「享保・寛政・天保の改革」

江戸幕府による朱子学を中心とした儒学政策は、徳川家康の時代に始まり、第8代将軍徳川吉宗の湯島聖堂建設で最高潮に達しました。

しかし、理念的な朱子学よりも、実生活に役立たせることを目的とした学問を重んじたことで朱子学は不振となり、湯島聖堂の廃止さえも検討されました。

No.206 湯島聖堂 - 「『建築の東京』を歩く」を歩く
(「湯島聖堂」は日本の学問発祥の地とされています。東京都文京区湯島)

第8代将軍徳川吉宗は享保の改革で、世の中には実学が奨励されるようになり、漢訳洋書の輸入制限の緩和、天文台の設置などを行いました。

1790年(寛政2年)徳川吉宗の孫に当たる、老中松平定信は、寛政の改革の一環として、消えつつあった朱子学擁護を命じました。
(余談ですが、そのとき「湯島聖堂」をあずかっていたのが林家。この林家は吉本興業グループの創業者・吉本せいの実家で、同グループのオーナー一族だそうですよ。)

そうして、学問の統制となるこの「寛政異学の禁」の後、学舎が増設され、旗本・御家人だけでなく、藩士・郷士・浪人らも聴講ができるようになりました。

1793年に林述斎が林家をついで大学頭となると、それまで林家の家塾だった「湯島聖堂」が、正式に幕府直轄の学問所となりました。

学問所では、毎月の定日に経書の講義や会読、小試・大試などの試験もおこなわれました。

そして、このような学問所は藩校のモデルとなり、江戸時代後期には、藩校の教官養成の機能も果たしていました。

天保年間には全国的な凶作による米価・物価高騰や天保の大飢饉や、百姓一揆、アヘン戦争など幕府を揺るがす事件が多発していた一方で、一般に現代に知られる江戸期の町人文化の全盛期にあたり、国学やオランダを通じてヨーロッパの学術や技術などの学問の大成した時期でもありました。

 

 

幕末期 いよいよ学校と呼ばれる「寺子屋」登場

サマル先生の思い出~寺子屋編~ - 外国で一時的個人的無目的 ...

江戸時代後期の教育制度は、幕府の財政難や体制の危機が深刻化するなかで、武士の生活難も目立ってきた諸藩は、教育の改革を断行。

一方の諸藩は、藩学(藩校)、民間の教育機関である塾(私塾)などを設立して子孫の教育を行っていました。

また、庶民の個別指導教育として寺子屋が開校。この時代から庶民の学問というものが始まったようです。

>>世界が驚いた!世界トップレベルといわれた日本の教育とは?

 

ここで、主にあった藩学、私塾を少しご紹介します。

<名称>
明倫館
日進館
適塾
鳴滝塾
松下村塾
<開祖>
毛利吉元
松平容頌
緒方洪庵
シーボルト
玉木文之進
<分類>
藩校
藩校
私塾
私塾
私塾
<年号>
永禄18年
寛政11年
天保9年
文政7年
天保13年
<立地>

会津若松
大阪
長崎

慶應義塾大学 : 【旧帝大】大学群の通称一覧【早慶】 - NAVER まとめ

適塾は大阪大学医学部および、慶應義塾大学の源流の一つとされています。

そう思うと、現在残っている学校は学問に対する歴史を感じることができますね。

 

明治・大正・昭和初期~第二次世界大戦

明治時代になると日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化しました。

さらに、「西洋のものなら何でもよい」という考えすら出ていたそう。

近代思想は、慶應義塾の創設者である福澤諭吉の『西洋事情』や『学問のすゝめ』、中江兆民の『民約訳解』、一橋大学の創設者である森有礼の『明六雑誌』などによって普及し、教育制度の確立が行われました。

国民教育の普及は、近代国家の形成に大きな役割をはたしましたが、教育政策は自由主義的傾向から中央集権的・国家主義的傾向へ方向を変えていきます。(代表例:帝国大学令)

1873年(明治6年)には日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令、学制が決められます。

全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画し、身分・性別に区別なく国民皆学を目指すようになりました。

このようにして、義務教育が法文化され、女子教育が普及していきました。

ここへきてようやく、今でいう学校制度が始まりました。

 

学問の発展
欧米の進んだ科学や技術を熱心に導入した明治政府は、お雇い外国人らを入れ、研究機関を次々と設立し、世界的水準の研究成果が次々と発表されるようになりました。

経済学では田口卯吉。

医学では北里柴三郎、志賀潔、野口英世らが先陣を切って研究を進め、薬学では高峰譲吉、鈴木梅太郎、秦佐八郎らが高い研究成果をあげました。

資本主義の進展と共に社会的矛盾(貧富の格差の拡大など)が顕著となり、それを批判して社会主義思想が登場するようになりました。

 

新たな学校教育制度 第二次世界大戦後・昭和後期~平成

敗戦後、連合国軍の占領下で、第一次アメリカ教育使節団の調査結果により学制改革が施行されました。

主な内容は「複線型教育」から「単線型教育」の「6・3・3・4制」の学校体系への変更。

義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長でした。

複線型教育は社会階層に応じた教育構造であったこと、教育の機会の平等を主目的とするものでした。

教育勅語は効力を持たなくなり、新たな学校教育制度が確立されていきます。

その後、受験戦争、詰め込み教育・ゆとり教育・脱ゆとり教育、2011年には「生きる力」を培う教育、総合的な学習の時間などが話題に上がり、教育社会学的な議論がなされるようになりました。

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まとめ

いかがでしたでしょうか?

日本の学校教育の歴史は、思っていた以上に歴史が浅いということがわかります。

そして、日本の教育の始まり、学校の始まりについて知れば知るほど奥深いものを感じました。

こういった歴史があったということを知ることで、現代の学びはどうあるべきなのか、改めて考えさせられました。

第8代将軍徳川吉宗は、自分のことだけでなく、社会全体が、経済がどうすればよくなるかをよく理解されていたのだろうなと思います。

人が財産であるということ。

世界を動かしていくのは人であるということ。

そのためにはどういった人間が必要なのか・・・・。

未来を考えたときに、大人が子どもにできることといったら「教育」ですよね。

そして、これからの時代、学びに対して日本はもっと「自由に教育を選ぶ権利」が必要だと強く思いました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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