今の時代にあっても、子どもたちは気候の変化に大人より全身で身を任せています。
あたたかさ、暑さ、涼しさ、寒さに正直に反応します。
子どもたちをとりまく大人たちは、自然の大きな流れと自分たちの心とをもう一度結び付けなければなりません。
都会で働き暮らす日々は小刻みです。
その渦の中に身を任せてしまえば、時はもっと寸断されます。
季節の変化は、私たちの心と離れたところで進行します。
シュタイナー教育に携わる者たちは、一年の流れに沿った祝祭を大事に考えます。
神聖なものへの畏敬の念や感謝の思いは、人をたらしめるために必要な宗教性として大事にしていますが、シュタイナー教育は特定の宗教を教えるものではありません。
「ほんとうのもの」がたとえ一つだとしても、そこへたどりつく道は、人の数だけあるでしょう。
キリスト教は、長い年月ヨーロッパの歴史とともに歩み、成熟してきましたが、根底にある「ほんとうのこと」は、どの人にも開かれています。
逆に、とても民族的と思われる日本古来の行事にも、世界のさまざまな民族が見いだしてきた祭りの意味と共通する普遍性があるかもしれません。
世界のさまざまな民族をつなぐ普遍性と自国の個別性の間に立って、新しい祝祭を生み出していく作業は、シュタイナー教育のカリキュラムを日本の地に降ろしていく努力とも重なります。
春を迎える
春の祝祭「イースター」たまごとうさぎが、春のお祭りのやさしい主人公です。
たまごは、私たちに生命のぬくもりを伝えます。
その殻は硬いようで、もろいものでもあります。
たまごは生命の始まりには、守りが必要なことも教えてくれます。
うさぎ、という動物はとても柔和です。
他の動物を攻撃したり傷つけたりしません。
仲間の急のときには、思いがけない勇敢さを行動に移し、大きな動物に追われているうさぎがいると、パッと走り出て、自分がおとりになって追っ手をくらませる、といいます。
夏至祭り~ヨハネ祭
夏は、四季の流れを一年周期の呼吸にたとえると、息を吐ききるときにあたります。
大人も子どもも、心が外へ外へと広がっていきます。一方では、じめじめした湿気が身にまといついて、調子を狂わせます。
そんな重さと、しめっぽさを振り払うようにして、シュタイナー学校では夏至祭りが行われます。
祝祭の中心は動きと踊りと音楽です。言葉やお話はあまりいりません。
ヨーロッパの夏至祭りには、ヨハネ(新約聖書に出てくる洗礼者ヨハネ)の名を冠して、ヨハネ祭という名がつけられています。
ヨハネの誕生祭が6月24日で、ちょうど半年後の12月24日、幼子イエスの誕生と対になっているのです。
それぞれ、夏至、冬至と近く、夏の火の輝き、冬のともしびと関連づけられた祝祭です。
洗礼者ヨハネは、幼子イエスに先立って生まれ、イエスに先駆けて活動を始めます。
そして、イエスの活動が本格的になる直前に、その生涯を終えます。
常に、自分の後に来るべきもの、先の方向を指し続ける生き方に徹したヨハネの名が、夏の祝祭につけられているのは、意味深く思われます。
広がりきった夏の気分は、秋にはふたたび内側に向かいます。
冬には、外の世界は暗さを増し、でも自分の内にはそっと光が灯るような、冬の祝祭が訪れます。
明るい、暑い大気の中へ、あなたを解き放ちなさい、でもその先をも予感し、道を整えなさい「夏の声」に、心はそっと促されているようです。
秋の祝祭~ミヒャエル祭
夏の暑さが一段落し、朝晩の空気に涼しさが入り込むようになると、心も我に返って、新しい気分が身辺に寄せてきます。
そとの輝きに向かって息を吐ききっていた一年周期の呼吸は、これから内の方向を辿ります。
地上では、太陽の恵みを存分に受けた米が実り、果実が赤く色づきます。
秋の実りが本格的になるころ、あちこちから祭りの太鼓が聞こえてきます。
太鼓の響く中にいると、なにか強いものが私たちを通過して大地に打ちこまれていきます
ミヒャエル、という大天使は、鉄の剣に身を帯びて戦う天使です。
また、秤を手に、人の魂の善悪をはかる天使としての姿も持っています。
古来、ミヒャエルは、悪の竜を剣で倒す天の使いとして、人々の中に生き続けてきました。
そのもっとも壮大な場面は、新約聖書のヨハネ黙示録に描かれています。
「さて、天では戦いがおこった。ミヒャエルとその天使たちが、竜に戦いを挑んだのである。
竜とその天使たちも応戦したが、勝てなかった。そしてもはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。」
もっとも厳しい戦いが繰り広げられるのは、実は人の心の奥底なのでしょう。
現代の竜退治は、内的な戦いです。
事柄を誰かや、他のもののせいにせず、自分で担わなければなりません。
自分自身で担おうとするのは、地味な行為です。
「あれは間違っている」「あの人のやり方は、正しくない」「あの人のやり方が、うまくいかなう原因だ」原因を外に押しやっても、心は安らがず、不安が際限なく湧いてきます。
ミヒャエル祭が、私たちの中に贈ってくれるのは、現実をそのまま認める勇気と、前進しようとする意志です。
とても現代的な、大人のための祝祭でもあります。
冬の祝祭~クリスマス
4週間をかけて、段階を追ってクリスマスを準備するドイツの「アドベント~待降節」の習慣は私たちの一般的な感覚からすると、気長で悠々としています。
アドベントの始まる直前に、モミの枝で緑のリースを作り、4本の赤いろうそくを立てます。最初の日曜日にまず1本、二週目がきたら二本、次の週に三本・・・・と灯す灯りが増えていきます。
アドベントは「訪れを待つ時」なのです。
最近はアドベントカレンダーという、クリスマスまでの4週間カレンダーも輸入されるようになりましたが、まだまだクリスマスを4週間もかけて用意する長い呼吸は、日本には馴染んでいません。
正月間近になれば、せいぜい一週間、あわただしいときには一日二日でそこらじゅうを駆け回り、大晦日の夜も押し迫ってやっと一段落というせわしなさが私たちには親しいものです。
正月に向かう気分は、一気にクレッシェンド、テンポアップ、緊張感がグングン高まり、しまいには、ほっ・・・・という呼吸です。
そんな年の暮れもいいですが、準備期間を意識的に伸ばし、十二月の初めからアドベントの4週間をすごしてみると、またひとつ違った豊かな味わいを覚えることができます。
クリスマスに語られる幼子イエスの誕生の話も、長い年月、それに耳を傾ける人たちの心を通して伝えられ、育まれてきました。
幼子に向けられるまなざしは、私たちの内から生じる、一番あたたかなものです。
ここで、伝えられる幼子イエスの生誕の場面を、思い描いてみましょう。
赤児は飼い葉桶に眠り、その周りに母親と父親、祝いにやってきた羊飼いと博士たちがいます。
さらにその周りを牛やロバが囲んでいます。
地上には草木、空には星が光っています。
石と、草木、動物と人間。
世界中の存在が、一人の子どもの誕生を見守っています。
準備のときを経て、この生誕の場面に辿り着くのがクリスマスの祝祭です。
人の誕生が、輝きに包まれたものであること、そとの目には隠されているその真実を映し出しているからこそ、クリスマス派、世界中で一番美しい誕生祝として、キリスト教の枠を超えて日本でもこれだけ親しまれているのかもしれません。
シュタイナー学校ではアドベントの始まりから、4週間の冬の祝祭の時期に入ります。
1周目は鉱物にちなんだお話、2週目は植物にちなんだお話。
3週目は動物が出てくるお話。
石と植物と動物と・・・・固いもの、育つもの、衝動にかられて動くもの、この3つそれぞれの要素が人の中にあります。
石は石として完全ですし、草木は草木でそれ自体よいものです。
そして、動物は動物です。
人間はそれら3つの要素に支えられ、でもそれだけでは人にはなれません。
段階を追って子どもたちは「人の子の誕生」を迎える心の準備をします。
大人たちは、子どもが人となっていくために、この世に生まれた事実を、もう一度大事に受け止め、自分の中にも、冬のこの時期に新しい「光の子ども」が生まれることを願います。
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