今の日本の教育に失望し、学校を嫌い、教師を快く思っていない人、そういう人にこそ読んでもらいたい。
ペスタロッチは学校の模範生ではありませんでした。
劣等生ではなかったけれど、はみ出し者だったことは間違いないでしょう。
大学でも気に入らない先生のギリシア語訳の向こうを張って、別のギリシア語訳を発表したり、自分のやりたい勉強や運動に専念するため大学を中退、そして政治運動に身を入れすぎて公務員になることもできませんでした。
しかし、そんなペスタロッチの教育実験が全世界の模範学校として認められるようになったのです。
ここではパスタロッチの人間性に惹かれ、彼のひたむきで、しかしながら愚直な生き方を伝えていきます。
ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ
スイスの教育改革者。1746-1827年。
彼は生涯のほとんどスイス国内に留まってたが、多くの教師や学校関係者、全ヨーロッパ諸国からスイスを訪問。19世紀中葉にはペスタロッチの名声は極東の日本にまで知られるようになります。
1789年フランス革命に続く動乱、97年のスイス革命政府の成立とその崩壊(1803年)、ナポレオンの侵攻とそれへの抵抗、そのような将来の展望もままならぬ状況のなかで、ペスタロッチはあえて教育の道を選び、しかも彼は教育による民衆救済の夢を、国際的な規模で実現しようと努力し続けました。
【少年時代】
5歳の時に父親を亡くしたペスタロッチに男性的な影響を与えたのは、チューリッヒ郊外の小さな村に住む祖父アンドレアス=ペスタロッチでした。
彼は村の牧師として牧会に励むかたわら、村の学校の改善にも取り組んでいました。
貧しい家々を訪問し、詳細な記録を作って村民に宗教的、道徳的、家庭的な面で指導助言をするという幅広い教育活動をも行っていました。
(この実践をペスタロッチはのちに小説「リーンハルトとゲルトルート」のなかで具体的に援用することになる。)
都市住民に圧迫され、搾取されて苦悩と悲劇のうちに暮らしている農民にじかに接し、このような人々の人間的開放のために自分の生涯を捧げようという彼の決心は、この経験に発しているといえます。
「農民は私にとって好ましく思われました。私は彼らの依然として生き生きしている自然の力が、顧みられずに放置されているという、農民教育の誤りと拙さを残念に思いました。そして、私の青年時代の極めて早い時期に、私は農村地域の教育改善のために微力を捧げられるように、自らを備えることができるのではないかという、一つの生き生きとした思想がわいてきたのでした」
【青年時代】
ペスタロッチはコレギウムーカロリヌムに入学した前年(1762年)、ジャン=ジャック=ルソーの「社会契約論」と「エミール」が刊行されました。周知のとおり、この二著は即座にフランス当局によって、発禁処分されます。
しかし、ルソーの思想はチューリッヒの学者や学生たちに多大な影響を与えます。
ペスタロッチもルソーを読み、ひどく感銘を受け、民衆に対する啓豪についてこう希望しています。
「だれかが最も平凡な市民や農民にも理解でき、利用できるような、十分簡素で優れた教育の原則を載せた、2,3の冊子を印刷してくれればよいのに。」
さらに農業を擁護して次のように言います。
「私は農業を振興したい。いったいだれがそれを望まないのだろうか。これを望まない人というのは、農業の振興によって自分の商売を邪魔されるような人だ。」
そして、上流階級の暮らしを捨て、法律学校もやめて、農耕生活と自然生活に入りました。
1770年ペスタロッチは妻、アンナとの間に息子、ヤーコブを授かります。
ヤーコブが3歳の折に、ペスタロッチがつけた貴重な資料、『育児日記』が残されています。
『育児日記』には次のようなことが書かれています。
汝は大自然の自由な講堂へ、子どもの手を取って連れてゆくだろう。
汝は山や谷で彼を教育するだろう。
このような広々した(自然の)自由な講堂の中では、子どもの耳は術(人間の文化)へ向かって導こうとするあなたの意図に対しても、開かれていることだろう。
言語や測量術の重苦しさは、自由によって取り換えられるだろう。
しかしこの自由の時間にあっては、汝よりもむしろ自然こそが教師なのだ。
・・・・鳥や虫のほうが一層多く、しかも上手に子どもを教えるのだ。
ペスタロッチの実践
この時代、一般的に子どもたちは、大きな農家に引き取られて家畜同然にこき使われたり、乞食の手先としてこき使われたりしていました。
一方では貧民子弟を安い労働力として搾取しようとする企業家もありました。
表向きは救貧事業と言いながら、その実際は廉価な労働力として子どもをこき使う事業主たちです。
ペスタロッチはこうした事業主に対し、批判を浴びせています。
そして貧乏で見捨てられた子どもたちに農業や糸つむぎなどの労働を教えながら、同時に知的、道徳的教育も行おうとします。
子どもたちは、自立できるように紡ぎ方や織りてとして生活費を稼ぎながら算数を学び、自由時間に読み書きを教わります。
「50人の小さな乞食たちの中にいて、貧しい中からパンを分かち合い、乞食たちに人間らしく生きることを教えるために、私自身乞食のような生活をしながら働いていた時、子どもたちの進歩に深い感銘を受けた。
これが今、私たちが「文化をはく奪された」と呼ぶ子どもたちに矯正教育を授ける最初の試みの一つであった」
そして、多くの貧しい人々も教育を通して進歩できるという考えを説いたために、長い教訓的な小説を書き始めます。
1780年ペスタロッチは『隠者の夕暮』を書き、「エフェメリデン」5月号に掲載してもらいます。
『隠者の夕暮』で自信を得たペスタロッチは、そこで表明した思想を小説の形で発表することになります。
生活の糧を得る必要に迫られての執筆でもありました。
しかし、ナポレオンが1798年にスイスに侵略するまで貧しい人々の状況を改善しようという考えを実行に移そうと考える人は誰一人としていませんでした。
フランス軍の働きかけによって、スイス政府もようやく孤児のための学校を設立することに着手します。
そして、ペスタロッチがその役に任じられました。これが、彼が先頭に立って進めた実験の最初のものであり、理論を実践に移そうとしたのでした。
政府からもこの努力に関する最初の報告は「方法」と呼ばれ、モンテッソーリが「メソッド」を出版する100年前に出版されました。
その冒頭は「私は、人間教育を心理学的に扱ってみようと思う」という言葉で始まっています。
ペスタロッチの教育原理「ゲルトルート児童教育法」
『ゲルトルート児童教育法』、正しくは「ゲルトルートの子どもの教え方」はペスタロッチの作品『リーンハルトとゲルトルート』のヒロイン、ゲルトルートの名前を借りたものです。
ペスタロッチのメトーデは次のように整理することができます。
(1)教育の仕事を平凡な母親たちの手に渡せるように、教授法を単純化ないし簡略化すること。
(2)内容のない言葉だけの知識、そういうものは民衆を不幸にするだけで真実の学力とは言えない。
(3)民衆の子どもたちに直観に基づく適切な概念内容(言語)を与えること。(自分の周囲の世界は正しく(学問的に)認識する手段を与えること。)直観の三要素として、形、数、語の三要素を挙げている。この基礎を押さえることができれば最高の学問の世界にまで子どもを導くことができる。
(4)子どもは自然界を直観し、認識すると同時に、人間の社会(道徳や宗教の世界)をも直観し、認識する必要がある。
(5)「技能は徳の感性的な基礎である」自然や事物や事実の必然性(法則)を学び、これに従うこと、つまり技能を的確に行使すること、が人間の道徳性の基礎を養うこと。
「感覚を訓練すること、思考は具体的対象を正確に観察することから始まる」
という信念に基づいて行われました。
そのため、カリキュラムは子どもたちの直接体験を中心としたもの、「身体の活動や何かを集める、野外に遠足に行く」など。学習段階は、数学記号、言葉の単純なものから複雑なものへ、具体的から抽象的なものへ。
この考えはこの一世紀半の間に多くの人々の考えや実行によって改善され、発展し、今日ではごく普通なものとなっています。
しかし当時としては、革命的な教育概念でした。
ペスタロッチのイヴェルドンにある学校は、子どもを教育すると同時に教師の訓練も行われました。
ヨーロッパ中から「方法」を研究するために訪れ、自国へ帰って、多くのペスタロッチスクールを創設しました。
ペスタロッチはヨーロッパ、アメリカの学校にきわめて大きな影響を及ぼしたのです。
イヴェルドン学園
「ゲルトルート児童教育法」が刊行された影響もあり、1802年からパスタロッチ主義の学校を訪問する人々が相次ぎます。
ペスタロッチのメトーデの評判は国際的なものとなり、名士の訪問、名門の子弟の入学、研修目的での教師の長期留学などが相次ぎます。
人々の期待に応えるためにはメトーデを補強し、より完全なものとして、その成果を実証して見せる必要がありました。
メトーデを補強するために、まずもって必要とされたのは、第一に「ゲルトルート児童教育法」で展開された知的教授の基本原理の具体化としての教科書あるいは、教授法の刊行。
第二に「ゲルトルート児童教育法」における知育偏重、道徳・信仰の軽視という批判に答えることでした。
第一の課題については、彼の教師団との共同作業によってこれに取り組みました。
第二の課題では、特に母親の役割の重要性について述べていますが、この論文は彼の存命中には刊行されませんでした。
さまざまな批判はありましたが、「メトーデ」の評判、イヴェルドン学園の名声は、全ヨーロッパに広がります。
そして、教育史のうえでどうしても見落とすことのできないのが、フレーベルのイヴェルドン滞在です。
フレーベルは1805年の夏、フランクフルトにおいてグルーナーの学校で教師になることを勧められ、そこで初めてペスタロッチの仕事を知ります。そして1810年まで滞在しました。
イヴェルドン学園への期待は大きく二つに分けることができます。
一つは、下層の民衆子弟のための教育であったが、メトーデの価値を認めたドイツやフランス、その他の国々の上流社会の親たちの個人的な期待。
二つ目は、教師として自発的に、あるいは政府の命令を受けて義務的に「メトーデ」を学び、教師としての腕を磨くため。
イヴェルドンの学校には、当時のヨーロッパの模範学校のいわば総本山的な存在として、期待がかけられていたのです。
しかし、1810年学園は崩壊への道を辿ることになります。
ヨハネス=ニーデラーとヨゼフ=シュミットの主導争いが学園に危機を生じさせたのです。
この主導権争いの背景には、学園の在り方をめぐっての基本的な理念の対立がありました。
「メトーデ」の理念としての完成にまず力を入れるべきであるとする壮年31歳の燃える理想主義者のニーデラーと、「メトーデ」の具体化による教育成果の一層の向上に努力すべきであるとする、23歳の青年ながら冷徹な現実主義シュミットが、この二つの立場を代表していたのです。
学園を取り巻く状況は、年ごとに確実に悪化していきます。
1825年国際的な名声をほしいままにしていたイヴェルドン学園もこうしてその活動を終えました。
晩年のペスタロッチ
ペスタロッチは、まだ残っていた4名の生徒を連れてノイホーフに引き上げます。
ノイホーフでの彼の最後の仕事として、自伝的著述としての「白鳥の歌」および、「わが生涯の運命」の刊行。「リーンハルトとゲルトルート」の第5,6巻を完成するための執筆作業も行われていましたが、これは刊行されないままその他の遺稿とともに紛失します。
1827年ブルックにて死去。
彼がノイホーフでの自分の経験を述べた有名な言葉
「乞食たちに、人間として生きることを教えるために、私自身が、一人の乞食として生活したのでした」
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