「うちの子は本を読まなくて・・・」という声はよく聞きます。
基本的にはどの子も等しく、絵やお話しが好きなもの。
ただそのことに気づいてあげられなかったり、育ててもらえなかったりしているだけなのです。
では、なぜ気づいてあげられないのでしょう??
それは「お話が好き」というシンプルな真実を覆い隠してしまっているものがあるから。
例えば
「本を読むと頭が良くなる」
「本を読むと物知りになる」
「本を読むと作文が上手になる」
というように。
もちろん本を読むことによってもたらされる、目に見えるよいこともたくさんあります。
しかし、本当の意味でのよいことに目を向けることなく、表面的なところだけがひとり歩きしていくような傾向は、少し気がかりです。
先の見えにくいこの社会で、私たちは何においても、即効性のある、目に見える効果ばかりを期待し、いつも、どんな出来事でも、わかりやすい形で納得しようとしています。
そうして、見えないところで起こっている出来事に関心を寄せたり、見えないものを見たりする力が弱まってしまいます。
そんなとき、力になってくれるのが絵本であり、物語なのです。
なぜ本が大切なのか
この世界はそんな安易にわかることばかりではなく、むしろ意味がよくわからない、曖昧で、矛盾した、割り切れない、そんな混沌の中にあるものもあります。
それらをとらえるのには、エネルギーも勇気も、時には困難も伴うし、ストレスにもなります。
けれど、それらを放棄してしまうことはつまり、真実を覆い隠してしまうことになるのですね。
それに、本来、「本を読む」「絵本を読んでもらう」のは、効率や何かの役に立つということとは対極にある営みです。
ですから、私たちはまず、優れた物語を、ただありのままに「感じる」ことから始めてみるのです。
そして、もし、そこに何かしら感じることがあれば、それを大切にしていくこと。
絵本や物語は、子どもの精神に働きかけ、イメージする力をもつけることができます。
よい本には断片的でない、生きていくうえでのありとあらゆる指針が内包されています。
そして、登場人物のいろんな心情にふれることで、自分ではないほかの人の心を、自分の中にもつこともできるでしょう。
本を読まない子どもたち
昔から学校などでは「読書週間」というものがありす。
「読書」をすることで、学力を上げるという考えからでしょう。
しかし、本は「読まなくてはいけない」ものではありません。
「読みたい」「知りたい」といった欲求から生まれてくるものです。
本を読む多くの子どもは、そういった探求心があります。
現代ではテレビやゲーム、スマートフォンなど、気軽になんでも知ることができる時代です。
若者の「読書離れ」が叫ばれる昨今、本を読む子ども達の姿を見ることは少なくなりました。
子ども達の手には常にスマートフォンが大切そうに握られ、暇を見つけてはSNSやゲームに興じています。
手軽に楽しめるものが増えたことで、読書離れが起きているといえるでしょう。
しかし、画像や動画で得た知識では、絵のインパクトが強く、テンポも速いため、内容まで理解することは難しいのです。
本はそういった安易に与えられたものだけでなく、読み手、聞き手の想像力があってこそ力を生み出します。
子どもたちは語りを聞くことで、自分の中でイメージする力(想像力)をつくってゆくのです。
本を読むことの効果
ただし、「本当の意味でのよいこと」はすぐにあらわれるものでもなければ、目に見えるものでもありません。
それらを十分に味わうためには、その時が満ちるのを待ってみるということも必要なようです。
そうして、時が満ちて、扉を開けた子どものほうが、ずっと豊かに新しい世界を自分のものにしていくのではないでしょうか。
目に見えないところにこそ、大切なものがあり、それをどう見るかに、本を選ぶセンスがとわれているように思います。
そして、「学校の成績」や「読んでいる姿」などの「目に見えるもの」をみるのは簡単ですが、一方で、それが見えない時こそ、本当に大切なものが見えてくるような気もしています。
目に見えないものを思い続けるのは難しいことです。
けれど、このような誰かの言葉に委ねて、期待して信じてみる力は、何かのときに、自分で思っている以上に力を発揮してくれます。
それに、その方がきっと、潔く、陰影に富んだじんせいを歩んでいくことができるのではないでしょうか。
私たちは本来、そのような力が秘められているのだと思います。
そして、同時に、この「目に見えないもの」は、いつまでも完了することがありません。
たとえば「優しさ」「思いやり」「感受性」「思慮深さ」「自分で考えられる」といた類の「見えないもの」は、いつでも途中経過でしかなく、長い時間のなかで、その年齢ごとに、少しずつ降り積もるように蓄積していくものです。
本を読まない子どもに読書をさせたい親
我が家の子どもたちは、みんな本が大好きでなので、よく周りのお母さんから
「読書好きでうらやましい」
「子どもに読書をしてほしい」
といわれます。
大切なのは、大人が子どもと向き合って読み聞かせをしてあげること だと思います。
大人がたのしそうにしていることは、子どもはよく知っています。
大人がスマートフォンをいじっていれば、子どもも触ってみたくなる。
お母さんが楽しそうに料理をしていれば、一緒に台所へ立ちたがる。
そんな理由で子どもは動きます。
私が本好きということもありますが、お話を聞くということは、子どもにとって夢を与えるようなもの。
物語は、子どもをファンタジーの世界へと連れていってくれる魔法のお話です。
そして、同じ本を何度も「読んで」と言ってきても、読んであげること。
読み聞かせは、お母さんの声を全身で感じられるひとときでもあり、絵本は心に栄養を与えてくれます。
そうして、絵本や物語を聞くことで、子どもたちは
与えられたものではなく、つくりだす力
を身につけることができるようになります。
『せかいのはてってどこですか?』
ここで、一冊の絵本をご紹介したいと思います。
『せかいのはてってどこですか?』
(およそ7~8歳向け)です。
井戸の底で暮らし、そこを世界のすべてだと思っていた一匹のかえるが、水も食べ物も枯れてしまったある日、初めて井戸の外に出て、世界を知っていくというお話です。
冒頭部分には「そのいども なかなか すてきでしたよ」とあります。
そのかえるは、井戸のかなしか知らなくても、そこそこ幸せに暮らしていたことがわかります。
でも、こうも書かれています。
「とてもへんてこな かんがえをもっていました。この井戸がせかいのぜんぶだとおもていたのです!」。
井戸の底から空を見上げると、どんな景色が見えるのでしょう。
ぽっかり空いた小さな穴からしか見えない世界は、世界のぜんぶになかの、ほんのわずかにすぎないのですが、自分のいる世界がすべてで、それだけで満足している姿は「へんてこ」だということのようですね。
けれどさいわい、このかえるは、おろかなままでは終わりませんでした。
「ぼく まはねるはねるちから力のあるうちに、せかいのはてを みておいたほうが いいんじゃないかな」
自分自身を、冷静に、客観的に見つめているからこそ
「みておいたほうが いいんじゃないか」
という発想が生まれるのでしょう。
そうしてかえるはひとつひとつの石垣を登り、井戸の外に初めてでていきます。
すると、そこにはかえるが今まで知らなかった世界がひろがっていました。
黄色いひなぎくの花、水を飲むめうし、森の動物たち・・・。
そして気づきます。
「せかいには ぼくのいどより たくさんのことがあるんだな」
自分の感覚を拠り所に、井戸の外にでていき、これまで知らなかった事柄や感情に出会うことで、かえるは少しずつ変えられていきました。
それまでは小さな井戸のなかだけで満足していたのが、
「ぼくは おがわにそっていって どんなことになっているのか みてやろう」
と、さらにその歩みを止めなかったほどに。
こうして見てくると、例えば「かしこさ」も、「かしこくなりました」と、どこかで完了するものではなく、「自分は知らない、だから知らなくては」と謙虚に思いつづけ、求めつづけることをいっているように思えてきますね。
時には
「ちいさなかえるは、そこに すわったまま、ちょっとかんがえこみました」
と、ひとりで静かに思いをめぐらしていることもあるようです。
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