数が増えるほど、そのものの価値や意味合いが軽くなってしまうというのは何に
おいてもよくあることですが、言葉においても同じようなことがおきているようです。
SNSに代表されるように、だれもが表現者になり得る時代、そうして表現の場が増えた
ことによって、言葉の拡散の範囲は格段にひろがり、スピードも、断然速くなりまし
た。もちろん、それはそれで利点があり、希望もあるのですが、一方で、早く反応する
ことばかりが大切になってはいないだろうか、むしろ、そのことによって、手放して
しまっているものはないだろうかと思います。
それにインターネットの普及によって得られる利点はなんといっても手軽さですが、
そこにも、言葉を軽くしてしまった原因があるような気がします。
かつては、何かしらの事柄や言葉について「知りたい」と思えば、辞書を開いたり、
誰かに教示を受けたりと、自らの積極的な働きかけと、そのための時間と労力が必
要で、そうしてゆるやかに体得しながら、自分のものにしていたはずですね。
けれど、今となっては、「知りたい」ことは、すぐに検索することができますし、
最近では、その「検索」すら必要なくなったといわれるほど、「知りたい」と思
わずとも、情報のほうから積極的に歩みよってきてくれるわけです。
一度得た自らの言葉を、今度は遠くに放り投げてみたり、また手元に引きよせて
みたり、そのような「吟味」ともいえるような過程をくり返さずとも、言葉を自分の
手元におき、そのまま使い手となれてしまう時代です。こうして、現代に生きる
私たちは、早く、広く、そして手軽さのかげで、「自分自身の言葉」が湧き上がって
くるのを待つことをしてこなかったのだろうと、改めて思います。
もう一つ。学校や社会のなかで、その場を丸く収めるための正解や、用意された場
といった、「あるべき姿」を求められる場面が増えたということもありそうです。
たとえば、「反省」という類のものは、本来、謝罪の言葉や反省文といった表現以
前に、「湧きあがる言葉」があり、それらが形となっていくもののはずですが、
ただその場が用意され、表面的な言葉だけを受け取られていくとすれば、そこで
行われる「反省」というものにどれだけ意味があるのでしょう。
ほかにも、ここ最近、幼児教育や学校教育の場でさかんに言われている、「ふわふ
わ言葉」「ちくちく言葉」というものへも、危うさを感じずにはいられません。
子どもたちは明るく、前向きになるいくつかの言葉を「ふわふわ言葉」、悲しく
暗い気持ちになるいくつかの言葉を「ちくちく言葉」として教えられ、「ちくちく
言葉は人を傷つけるから使わないで、ふわふわ言葉を使いましょう」と奨励される
のです。もちろん、あえて人を傷つけるような言葉を使う必要はないですし、みん
なが「ふわふわ言葉」だけで、終始、心から穏やかに過ごせるならいいのですが、
一方で、私たちがさまざまな感情の持ち主であり、さまざまな人の中で生活してい
る以上、不自然なことともいえそうです。そのような形骸化されたやり取りだけで
語れるほど、私たちの感情は単純なものではないはずですね。
こうして、わかりやすく、単純にすることは、今の時代の流行でもありますが、ど
こか安易で、子どもたち、いえ、もしかすると人間をも軽んじている・・・と感じ
ずにはいられません。もちろん、「ふわふわ言葉」そのものが悪いのではありませんね。
ただ、本来は言葉そのものが重要なのではなく、表現すべき「感情」こそが大切なのだ
ということ、そして、言葉によって自己の内面におりていく、そのうえで、その表現
の方法について、想いをはせていくことの尊さについても、同時に語られてほしいと
思うのです。自身になかにある、悲しみや憤りを含めた感情にも関心を寄せ、自らの
内なる言葉によって、それらの源を紐解いていくことが、今、この世界でできる一つの
希望の形のように思います。
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