シュタイナー教育とオイリュトミー

シュタイナー教育

シュタイナー教育には「オイリュトミー」という授業があります。

日本人には聞きなれない言葉であり、一体どういった意味のことを行うのでしょうか。

ここではシュタイナーの生み出したオイリュトミーについてご紹介します。

 

オイリュトミーの始まり

オイリュトミーが誕生するきっかけとなったのは、

「これまでの舞踏芸術とは異なる、新たな運動芸術の出発点はないだろうか」とシュタイナーに問いかけた、ある婦人の質問でした。

夫人には娘があり、その少女は動くことが大好きで、運動芸術を職業にしたいと望んでいました。

シュタイナーの世界観・人間観に深く共感のあったその母親は、既成の舞踏ではない新しい芸術の動きの指導をシュタイナーに託したのでした。

 

シュタイナーは1911年オイリュトミーの基礎を作っていきました。

その中でシュタイナーが新しい動きの源泉に求めたのは「言葉」でした。

 

言葉によって、人の内面は外の世界に伝えられます。

いろいろな感情、思考、壮大な思想や世界の法則も言葉によってあらわされます。

一つの言葉が、人を生かすも、時代を動かすこともあります。

そのような「言葉」は私たちの中でどのようにして生まれてくるのでしょうか・・・。

 

シュタイナーは、少女ローリー・シュミットに次のことを意識にのぼらせるように促しました。

“人は感じとったことのすべてを言葉であらわすことができるが、言葉とは、もとは「動き」であること”

 

心に思いや考えが生じると、そこには目に見えない動きの衝動が起こる、とシュタイナーは言います。

通常は、その衝動は身体全身の動きとはならず、その代わりに発声器官を通り、声となって外へ伝えられます。

 

オイリュトミーの動きは、言葉を発するときに、のど、口などの言語器官に生じる動きのプロセスを全身の動きへと変容させたものです。

 

例えば、私たちの心が驚きを基底に外の世界を受け止めた時、のどと口が開かれて「あ」という音となって発せられます。

「開き」が「あ」という母音の動きであり、オイリュトミーにおいては、最も基本的な両腕を一定の角度で開く身振りであらわします。

 

 

もともと舞踏とは、その始まりにおいて、人の内面の体験動きによってあらわすと同時に、人と世界の本質の調和を示すものでもありました。

古くから神殿舞踏はみな、そのような性格であり、古代にはあらゆる民族がそれぞれの「星の円舞」をもっていた、とも言います。

盆踊りの輪踊りも、もとをたどればそのような系列に連なっていたのかもしれません。

けれども、神殿舞踏は、時代が進む、人々が神聖な世界とふれあうような体験から遠ざかるにつれて、伝統の中に沈み込み、創造力をなくしていきました。

一方で、芸術様式として確立されていった多くの舞踏では、専門化された体の技術が追及されて、人の感情表現が主となっていきました。

 

このような事実の流れを踏まえて、オイリュトミーは、現代と将来のための運動芸術として誕生しました。

 

言葉の動きから基礎づけられていったオイリュトミーですが、ほどなく、音楽のオイリュトミーも始まりました。

言葉は人を世界に向かわせますが、人の本質と切り離せないもう一つの要素である音楽は、私たちを自分の中の「より良くなっていこうとする私自身」に向かわせます。

言葉をより空間的とすれば、音楽は時間的です。

「見える言葉」である言葉のオイリュトミーと、「見える歌」である音楽のオイリュトミーとが、ともに発展していきました。

 

「オイリュトミーは、シュタイナーが基礎づけた運動芸術で、見える言葉、見える歌である。

人が言葉を語るときに、のどとその周辺器官に働く法則が動きの基本」というような説明があります。

こういったことから、「言葉を動きで表現するもの=オイリュトミー」という解釈をすることができます。

 

教育的なオイリュトミーの力

幼児に向かう場合、オイリュトミストは専ら幼児の模倣しようとする意志に働きかけます。

ちいさな子どもたちは、何かを覚え込むのではなく、ひたすら楽しく動きの中に息づいていなければなりません。

昔ばなしや季節のおはなしの世界の中で、リズムや音の身振りなどを体験していきます。

小学校の段階になっても、一年生くらいのうちはそのような気分が授業でも継続されます。

オイリュトミーは、子どもたちの呼吸を整え、新陳代謝を促し、両足を強くします。

とりわけ、現代の都会生活のようにリズムが失われ、人の生きた動きに接することが昔よりずっと少ない環境にあっては、「正しくきれいに立ち、歩き、動く」という根本的な行為を子どもが学び取るだけでも、とても大きな力が必要です。

オイリュトミーの時間は、子どもの生きる意志を育む一つの大事な機会なのです。

 

 

学齢期に入った子どもたちは、だんだんと模倣から自覚的な動きが導かれます。

母音、子音、まっすぐなフォルムや丸みのあるフォルムの動きから始め、次第に韻律、文法、心のさまざまな表情などを動きであらわすことを習います。

音楽では、リズムやメロディーの基本要素から、音階、音程、長調と短調、和声の法則をもとらえていきます。

子どもたちは長い年月をかけて詩や文学、また、音楽の作品を動きで奏でられるようになっていくのですが、それは、読んだり書いたり聞いたりするよりさらに次元の深まる、全人的な行為です。

 

オイリュトミーをすることで、互いに「聴きあう」力も高められ、一人ひとりが自立しながら他者と関係を作っていくという、実践的な社会性も育まれます。

シュタイナー教育とオイリュトミー

シュタイナー教育は、たとえば、水ぼうそうやはしか、あるいは風邪に罹らないようにさせる予防注射ではありません。

人生最後まで私たちに付き添う病気や困難を、一歩さっきへ育つための糧とする、そんな力を培っていくというのが実感としてあります。

成長の調和のある姿を、その時期その時期に即して、動的に見ていくためでもあるでしょう。

また、今がどのような時代かをはっきりととらえ、それでも「社会がこうだから人間がこうなっても仕方がない」と言い捨てないだけの人の理想が生きているからでもあるでしょう。

きっと、シュタイナー教育は、あるべき状態をめざして淡々と進もうとする者たちのための、一つの道なのだと思います。

 

「将来の子どもたちは自分たちの世代を超えて、もっと人として自由になっていける。

私たちの中には、そうなろうとする発展の芽がある。」

 

子どものように、こんな理想を失わずに、努力する者たちの教育なのかもしれません。

ルドルフシュタイナーは、シュタイナー学校の教師になろうとする者たちに向かってこう言いました。

「人が生まれてくる前に、より高い諸力によって配慮されてきた事柄を、今私たちは教育によって継続しなければなりません。

こう考えることは、教育と授業のあり方に向かう正しい気分をもたらしてくれます。」

 

誕生した子どもたちが、まず全身で学び取ることは、正しく呼吸することです。

そして、少しずつ眠りと目覚めのふさわしいリズムを身につけていきます。

それが育つことの土台です。

「正しい呼吸」「眠りと目覚めのリズム」は学齢期に達した子どもたちが学校で受ける授業の根底にも、かたちを変えて生きていかなければなりません。

それは、授業の中で呼吸法を練習したり、起きたり寝たりの訓練をするわけではありません。

「健やかな呼吸」「正しい眠りと目覚めのリズム」が子どもの体のみならず心までどのような意味をもっているかを、大きな視野で思いめぐらすのです。

このような生きるための基本的な行為にどのような法則や意味が隠されているのかを探るのです。

そうすることで、ごく普通の行為と思っていた事柄が、思いもかけないほど多くを語ってくれ、教師にとって創造力の源に変わります。

教育は、現実極まりない仕事です。

と同時に、人の育ちには、人を超えた大きな世界の営みも関与している、と感じ取ることは、あらゆる宗教を超えた「心の事実」でもあるでしょう。

 

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