「義務」とは誰にとってどのような義務なのか。
また、その「義務」はどのような歴史的な背景をもち、現代日本のどのような法・制度となっているのか。
義務教育制度にかかわる基本的な概念である義務教育・教育を受ける権利・教育の機会均等など義務教育のあり方について考えてみます。
義務教育とは
義務教育のはじまり
「義務教育」という言葉を聞いて、どのようなイメージを抱きますか?
「義務?ちょっと面倒くさいことかな?」という感覚をもつかもしれません。
義務という言葉には、強制的で厄介なイメージがつきまといます。
学校に行きたくないと、いうと親はたいてい
「学校に行くことは義務だから行かなくちゃいけない」
といいます。
義務教育の「義務」とは一体何でしょう?
どういう歴史的な経緯があって、なぜ何のために、誰が誰に対して何を義務づけているのでしょう?
そのあたりのことをまずは「義務教育」に関する歴史を考えていきます。
義務教育の歴史として最も古いものを取り上げる際、入社式(イニシエーション)について触れなくてはなりません。
入社式とは
「男子が一定の年齢(多くは思春期)に達すると部族の長老によって一定の場所に集められ、断食、抜歯、割礼、あるいは体の一部に釘をうちこみ、その釘につなをつけて、重い丸太をそれにくくりつけて長い坂道をのぼらせるというような、さまざまな苦行を課し、そのはてに失神状態に陥ってしまう。そしてそれから覚めたところで、部族の歴史や掟について教えられ、新しい名前を与えられ、さらにその後は母のもとに帰ることを禁じられ、わが国にも近年まで各地に残っていた若者宿のしきたりのように青年だけで集団生活をし、そこで戦士の訓練、という制度」である。
これは部族の長老が、健全な男子青年に対して自らの部族社会の規範や愛郷心を苦行や戦闘訓練を通して学ばせる、最初の義務教育制度というべきものです。
このような入社式の儀礼は多くの社会で長い年月にわたって続けられています。
例えば古代ギリシャのスパルタの貴族や武士階級の男子は、7歳になるとすべて一定の場所に集められ、同じ規律の下に同じものを食べて生活し、読み書きを学び、さまざまな訓練を受けたといいます。
それは古代国家が対外的な防衛と体内的な支配を維持するため、マンパワーポリシーともいうべき義務教育制度を社会制度として持っていたということを示しています。
もう少し時代を下ると、1763年プロセイン一般地方学事通則に代表されるような、絶対主義国家の権力によって教育を受けることが義務とされた義務教育制度があります。
これには当時戦われていた7年戦争(1756~63年)において、プロイセン王フリードリヒが、高い教育を受けていた将校たちと、農民出身の読み書き能力をもっていない兵士との間を取り持つ「読み書く能力をもつ下士官」の極端な不足のため、非常に苦しい戦局に立たされたという背景があります。
同通則は、親などに5歳から13~14歳までの子どもを学校に就学させ、読み書きができるように学ばせなければならないと規定したことから、就学義務を果たすよう親などに義務づけた親義務、学校就業義務の原型が見て取れます。参考文献:「世界教育史大系28 義務教育史」
このように、近代以前の義務教育は、権力側、支配者側の支配体制維持の観点から求められたものでした。
明治期の日本の義務教育
日本において、義務教育という考え方が公教育として広く制度化されたのは、明治期以降になります。
江戸時代やそれ以前にも藩校で学問や武芸を一定期間義務づけるようなことはありましたが、それはあくまで武士階級に限ったことであり、民衆全体に対して義務づけることはありませんでした。
日本の義務教育制度の起源は、1872年(明治5年)の学制です。
学制は日本初の近代的学校制度を定めた教育法令で、フランスの教育制度に倣い、全国を8つの大学区に分け、その下に中学区・小学区を置きました。
その後1886年の小学校令では、義務教育は尋常小学校4年の課程修了と規定、1900年の改正小学校令においては6歳から14歳に至る8年間が学齢とされるなど、改正されていきます。
そして第二次世界大戦後、教育制度も大きく変化していきます。
日本国憲法第26条(教育を受ける権利)と教育基本法が戦後の日本の学校教育制度の大枠を方向づけました。
戦前は「国や社会を繁栄させるために、民衆にも教育を施す」という教育義務でしたが、戦後からは「教育を受ける機会が人権や信条、性別、経済的地位などにかかわらず、全ての人にひとしく保障されるべき」というものになりました。
自由のない義務教育
義務教育は「すべてのひとにひとしく保障されるべきもの」となっていますが、今の時代この義務教育の意味を見直す時期になってきているのではないでしょうか。
学校嫌いな子どもたち、不登校の子どもたち、
学校に行かなければいけない義務があるからこそ、苦しみ悩む子どもたちが大勢います。
教育に関する法と制度は人々の自由を制約するものであると捉えることができます。
我が国の教師には教科書を選択する自由はありません。
また、義務教育の中では保護者には就学義務が課せられているので、その子どもを家庭のみの教育で育てる自由は認められていません。
このように教育の法と制度は、一方では権利を保障しつつ、一方ではその自由を制約するという両面をもっているのです。
知ってますか?実は高い公立の授業料
子どもたち平等に教育を受けさせる憲法がありながらも、一方で教育を自由に選ぶことのできない制度。
おかしいですよね。
日本の学校システムの中に無償制というものがあります。
無償制とは、教育を受けるにあたって、教育経費は公費負担(公共財源=税金)によってまかなわれること。
しかし、この無償の範囲や対象についてはさまざまな制約があります。
憲法では「義務教育は、これを無償とする」となっていますが、教育基本法では「国、または地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない」と、無償の範囲を国公立学校の授業料に限定しています。
本来ならば義務教育にかかわるさまざまな費用が無償であるべきなのです。
国公立学校は、そもそも国民の税金で成り立っています。
そしてほとんど知られていませんが、公立学校の授業料は子ども一人当たり、月に9万円ほどかかっています。
公務員である教職員、役職、教材費諸々考えると、そのくらいはかかりそうですよね。
それと比べると、私立にかかる月5~6万円が安く感じられます。
国公立の学校はタダではありません。
国公立学校はすでに税金という形で支払われているお金で成り立っていることを忘れてはなりません。
日本では学校を選ぶことができないため、その税金は国公立学校にしか支払われていません。
そして、国に学校と認められていないと子どもは在籍をおいてもらうことができません。
NPO法人などの学校は、公立学校にお願いをして子どもの籍を置いてもらっていますが、実際は籍置いている分子どもの教育費は公立学校に寄付という形で入っているのです。
フリースクール・オルタナティブスクール
現代日本では一般に不登校の子どもが通う学校のような施設を「フリースクール」と呼んでいます。
しかし、最近では自分たちで学校を選ぶ「オルタナティブスクール」に通う子どもも増えてきています。
オルタナティブスクールとは、現在の公教育とは別の方針・理念をもって運営されているスクールの総称です。
私立学校法人の認可を受けたフリースクール・オルタナティブスクールもありますが、学校法人格を取得していないフリースクール・オルタナティブスクールであっても、一定要件を満たしていれば、小・中学校校長は、フリースクール・オルタナティブスクールへの通学日数を本来在籍する小・中学校への出席とみなし、卒業・進級に支障が出ないよう指導要録上出席扱いにすることができます。
「不登校だから通う」というのではなくて(不登校の子どもがダメということでもなく)、その教育・学校が好きだから通う、という場所。
今の公教育、学校はわたしたちは好きじゃないし、必要ないけれど、それがいいという人ももちろんいます。
悪があるとすれば、そのほかに選択肢がないことだと思います。
どんな学校でも行きたければ行けばいいし、行きたくなければ行かなきゃいい。
どうせ行くならみんな自分が好きな学校へ通っているのがいいと思う。
自分が好きな学校へ行くって、すっごい当たり前のことです。
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